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松江地方裁判所 昭和33年(わ)42号 判決

被告人 小林文慶 外二名

主文

被告人等をいずれも懲役八月に処する。

訴訟費用は、全部被告人等の連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人小林文慶は、夙に青年団活動に強い関心を懐き、昭和二一年頃、島根県連合青年団の初代団長に推され、崩壊せる県下青年団組織の再建、育成に熱情を注ぎ、団長の地位を退いた後も、引続き青年運動に対する多大の援助を惜しまなかつたもの、被告人森山金一は、青年団に関係はなかつたけれども、小林と同一の政党に所属し、同人と同様、出雲市を中心とする地方有数の有力者である関係上、同人と昵懇の間柄に在るもの、又、被告人松原嘉弘は、夙に本籍地の青年団に入り、飯石郡連合青年団副団長を経て、昭和二六年頃から昭和三一年頃まで同団長の地位に在り、且、小林、森山両名と同一の政党に所属する関係上、両名と昵懇の間柄に在るものであるが、昭和三三年五月二二日施行の衆議院議員総選挙の際、島根県より立候補して当選した竹下登も夙に青年団活動に関係し、昭和二六年頃から昭和三二年頃まで島根県連合青年団団長の地位に在り、而かも、被告人等と同一の政党に所属し、就中、森山とは同人の妻と姻戚関係に在り、平素被告人等と極めて昵懇の間柄に在つた関係上、竹下候補が立候補するや、被告人等は、いずれも竹下候補のため、選挙運動に従事するに至り、就中小林は、出納責任者となり、又、森山は、肩書住居居宅を出雲市における選挙事務所として提供し、被告人等三名共、選挙運動の中心勢力となつて、強力な運動を推進したものであるところ、一方、島根県連合青年団関係者のうち、竹下候補を支持する者の間において、竹下候補の長年に亘る団長としての業績に報いんがため、青年団の組織を利用して選挙運動をなさんとの気運が起り、偶かねてから青年団関係者の間で、「島根県青年運動史」なるものの発刊が計画され、既に、その編纂事業に着手していたところより、当時島根県連合青年団団長であつた吉川芳富、当時飯石郡連合青年団団長であつた阿川文雄、元島根県連合青年団副団長兼事務局長であつた原久夫、同じく元副団長であつた柴田隆、同じく当時理事であつた浅野俊雄、青年団に全く無関係ではあつたが、右原久夫等と懇意であつたため、青年団員連中と親交があり、而かも、嘗て故小滝参議院議員が立候補した際、その選挙運動に従事した機会に、当時県議会議員であつた竹下候補と面識のできた片山武夫等は寄々協議を重ね、こゝに「島根県青年運動史」編纂事業に藉口し、青年団の組織を利用して強力な選挙運動を展開すべき方針を樹立し、これに要する費用は、青年団の大先輩たる被告人小林、松原等から、これが出資を仰ぐべく、相談、打合せを遂げたものであるが、

第一、被告人等三名は、昭和三三年五月一日、森山の肩書住居居宅内なる竹下候補選挙事務所の離れ六畳の間において、前記吉川芳富、阿川文雄及び片山武夫から前記運動方針を打明けられ、竹下候補のための投票取纒等の運動報酬及び投票買収資金の供与方を求められるや、被告人等としても、青年層の支持に対し、尠からず期待していたところより、ここにこれを承諾し、よつて、竹下候補に当選を得しめる目的を以て、共謀の上、即時吉川等三名に対し、右報酬及び資金として、現金六万円を供与し、

第二、被告人松原嘉弘は、同月一四日、同所において、前記阿川から、吉川との共謀に基き、竹下候補のための投票取纒等の運動報酬及び投票買収資金の供与方求められるや、前回同様、阿川に対し、右報酬及び資金として、現金四万円を供与し

たものである。

(証拠)〈省略〉

(弁護人の主張に対する判断)

一、公訴事実及び弁護人の主張

本件公訴事実は、「被告人小林は、昭和三三年五月二二日施行の衆議院議員総選挙の際、島根県より立候補して当選した竹下登の出納責任者であり、又、被告人森山及び同松原は、その選挙運動に従事した者であるが、竹下候補に当選を得しめる目的を以て、(一)被告人等三名は、共謀の上、同月一日、被告人森山の肩書住居居宅内なる竹下候補の選挙事務所において、選挙運動者たる吉川芳富、阿川文雄、片山武夫の三名に対し、投票取纒等の運動報酬及び投票買収資金として、現金六万円を供与し、(二)被告人松原は、同月一四日頃、同所において、右吉川、阿川両名に対し、前回同様、現金四万円を供与したものである」というに在るところ、これに対する弁護人の主張を一括して要約すれば、「被告人松原が、第二回目の四万円を渡したことは、間違ないが、第一回目の分は、被告人等三名が渡したのではなく、これも亦、第二回目の場合と同様、被告人松原一人が渡したものである。而かも、それは、五月一日以外の日のことであり、又、実際の金額は、五万円であつて、六万円ではない。而して、被告人松原が前後二回に亘り渡した合計九万円は、決して、公訴事実にいうが如き趣旨のものではなく、島根県青年運動史編纂のための費用として渡したものである。被告人小林、森山両名が本件に全く無関係であることにつき、両名の弁解は、両名が相次で逮捕された当初から公判審理の際に至るまで、終始一貫しているところであつて、五月一日当日の行動即ち、両名のアリバイの主張が動かすことのできないことは、各種証拠によつて、極めて明らかであるに拘らず、この点に関し、検察官は、殆んど何等の捜査もしていない。山本善子、森山澄子両名が取調を受けた際、同人等が約二箇月以前たる五月一日当日の事柄につき、正確な記憶を有していたということは、到底あり得る筈はなく、その供述は著しい勘違いであると考える外はない。抑も、検察官は、先ず、片山の全く誤つた自白を基礎としていわゆる見込捜査を開始し、併せて、強いてこれに迎合せしめた阿川、吉川両名の自白をも根拠となし、被告人等の弁解を軽く一蹴し去つたのであるが、吉川等三名の自白の内容を対照してみれば、選挙事務所の離れの部屋に関係者が入つた際の情況、何人が現金を持つて来たかの点、関係者の座席順、現金授受の模様、関係者が同所を立去つた際の情況等極めて重要なる点につき喰違があり、全く支離滅裂といわなければならない。即ち、同人等の、「五月一日、被告人等三名から、現金六万円を受取つた」という趣旨の自白は、長期間に亘る拘禁中、強制或いは誘導によつてなされた供述に外ならず、固より、任意性がない。五月一日には、吉川は木次町で妹の嫁入道具である箪笥等を購入し、当日、出雪市にいた筈がないことは、同人が逮捕された際、三成警察署において直ちに、与倉警部補に供述しており、この弁解については、多数の裏付証拠もあるに拘らず吉川が恰もアリバイ工作をなしたかの如く架空の事実が捏造されて仕舞つたものである。吉川、阿川両名が安部要範宅を訪れたのは、実際は、五月一日であつたに拘らず、五月二日ということになつている事情も、これ亦、右同様である。要するに、五月一日、被告人等三名が吉川等三名に対し、現金六万円を渡したという事実は絶対になく、実際は、被告人松原一人が、五月一日以外の日に、現金五万円を渡したというのが真相である。ところで、同被告人は、かねてから島根県連合青年団のため、多大の犠牲を払つており、本件における前後二回に亘る合計九万円も、青年運動史編纂のための費用に充てるべき立替金或いは寄付金として渡したものであるから、右金員授受の事実は、何等犯罪を構成するものではない。仮に、吉川等において、右金員を違法な選挙運動に利用せる事実があつたとしても、被告人松原としては、毛頭これを認識しなかつたのであるから、犯意を阻却するものといわなければならない」というに帰着する。

二、被告人等の公判廷における供述

弁護人の「五月一日、被告人等三名が吉川等三名に対し、現金六万円を渡したという事実は絶対になく、実際は、被告人松原一人が五月一日以外の日に、現金五万円を渡したというのが真相である」との主張が、次の如き、被告人等の公判廷における各供述を基礎とするものであることは自ら明らかである。即ち、

(1)  被告人松原は、更新前の第二回公判において、証人柴田隆、同吉川芳富、同阿川文雄及び同片山武夫に対する尋問終了後、「自分が森山方で片山、阿川、吉川に会い、片山に第一回目の金員を渡したことは、間違ないが、それは、五月一日から三日までの間のことであり、実際の金額は、五万円位である。これは、青年運動史編纂のため協力する目的で出したものであつて、一部は寄付金、大部分立替金だと思つている。五月一四日、阿川に四万円を渡したことはある」旨供述し、更新前の第四回公判において、「片山等三名に会つたのは、五月一日でなかつたように思う。五月二日ではなかつたかと思う。自分が渡したのは、一、〇〇〇円札許りで五万円であつた。自分は、四月三〇日は、選挙事務所に泊り、翌五月一日は、選挙事務所にいた。当日、第一声と第二声の街頭演説のとき以外は事務所にいた。第二声の街頭演説終了後、二、三〇分間知人と話をしてから事務所に帰つたのである。それから、大社町に出かけた一行の自動車が帰つたという声を聞いたとき、上成橋の所まで出た」旨供述し、第一六回公判において、「四月三〇日、出雲市の選挙事務所に行つたが、当夜は、松江市の竹下候補宅に泊り、翌五月一日午前一一時頃、竹下候補と共に、出雲市の選挙事務所に行つたように思う」旨供述し、

(2)  被告人小林は、更新前の第四回公判において、「四月三〇日には、選挙事務所設置の準備がなされ、自分も顔を出したが、その他、選挙期間中、中盤戦までは、あまり行かず、五月一日には、全く行つていない。即ち、当日は、午前九時四〇分頃から、診察を開始したが、診察を終つてから午後一時前頃、食事をしているとき、選挙事務所から、二度目の電話がかゝり、大急ぎで街頭演説に出て呉れとのことであつたので、第一声が行われるべき元郡役所跡空地に真直ぐ行つた。其所が終つてから、竹下候補、森山等と共に、小型自動車で出発したが、第二声は今市横町ロータリー、第三声は今市中町四ツ角影山呉服店付近で行われ、森山は其所で別れ、自分達一行は、大社町に向い、大社町で三箇所許り街頭演説を行つてから、出雲市に向い、高瀬川堤を通つて、上成橋の所に来たとき、森山が出て待つており、自動車を止めて、自分に対し、患者があるから早く帰つて呉れと言つたので、自分は、下車し、森山が交替したが、それは、午後四時半から五時までの頃のことゝ思う。それから高瀬川の南堤を通つて裏道から帰宅したところ、浅尾亀子という高血圧患者がいたので、病室を開けて診察し、その後、六時から七時までサンルームにおり、七時過夕食を摂つて、再びサンルームに入り、それから二階の書斎に上つて一〇時頃寝て仕舞つた」旨供述し、

(3)  被告人森山は、更新前の第四回公判において、「五月一日当日は、自分は、朝食後九時三〇分頃、会社に出かけ、一二時前後頃市役所に行つたが、午後一時頃、選挙事務所から電話がかゝり、直ぐ帰つて呉れとのことであつたので、帰宅したところ、皆街頭演説に出かけようとしており、自分は、竹下候補と一緒に歩いて、第一声が行われるべき元郡役所跡空地に行つた。それから第三声の場所まで行を共にしたが、午後二時三〇分頃、大社町に向う一行と別れ、弟森山友信が経営している毎日新聞販売店に立寄り、次で、選挙事務所にも立寄つて直ぐ会社に行つた。午後四時過頃選挙事務所から電話がかゝり、小林医院に急患があるから、小林と交替して呉れとのことであつたので、四時三〇分前頃、バスの停留所に出かけ、二、三の運動員と話していたところ、一五分位してから、大社町に行つていた一行の自動車が来たので、これを止め小林と交替して乗車し、それから大津、直江、荘原、平田等五箇所で街頭演説を行い、一〇時頃帰宅し、食事を摂り、入浴の後寝て仕舞つた」旨供述し、第一八回公判において、「小林と交替するため、大社町から帰つて来る自動車を上成橋で待ち受けた時間は、二〇分間前後であつたと思う」旨供述している。

さて、被告人小林が昭和三三年六月一四日、被告人森山が同月二〇日、被告人松原が同月二九日それぞれ逮捕されたことは、本件記録上明らかであつた、小林、森山両名が逮捕された当初から公判審理の際に至るまで、いずれも本件に全く無関係である旨、終始弁解していることは、弁護人主張の通りであるが、如上被告人等の公判廷における各供述は、次の如き理由により、当然には、その侭これを信用することができない。即ち、

(1)  被告人松原の検察官に対する供述調書(昭和三三年七月九日付)には、同被告人の供述として、「五月一日当日午後四時前後頃、自動車が帰つて来たという声を聞いたので、上成橋の方に出たところ、橋から一〇〇米以上離れた大津町大曲に選挙用ジープが止つていた。其所で竹下候補と小林の演説があつたが、自分がジープの方に行く際、森山が自分よりも四、五〇米先を歩いていた。小林の演説が終つてから、森山が乗車して、神立橋の方に向い、自分は事務所に引返したが、その後小林が何所に行つたかは知らない。選挙期間中、吉川に会つたのは、一回は記憶しているが、何日であつたか記憶していない。阿川には、選挙期間中、会つた記憶がない。片山には、五月一〇日頃までに、松江市の選挙事務所に行つたとき会つて挨拶した外、二回目に松江市の事務所に行つたときも会つている」旨の記載があり、又、更新前の第一回公判において、冒頭陳述の際、同被告人は、「自分が選挙運動者であつたことは間違ないが、その他の事実は記憶がない」とて、公訴事実を全面的に否認せんとする態度を以て臨み、その後第二回公判以後、前記の如き供述をなすに至つたのである。

(2)  被告人小林の司法警察員に対する供述調書(昭和三三年六月一五日付第二通目の分)には、同被告人の供述として、「竹下候補の運動をするについては、自分が顔を出さんと高橋系の者が動かないということもあり、名前を出した丈であつて、単に、自分はロボツト的存在である」旨の記載があるけれども、竹下候補のため選挙運動につき、同被告人が単に名目丈の出納責任者に止まらず、密接不離の極めて重要な立場に在つたことは、諸般の資料に徴し、到底これを否定し得ないところである。更に、右供述調書には、「選挙期間中、松江市の選挙事務所には、一回位行つたことがあるが、その外出入したことはない」旨の供述記載があるところ、富田昇の検察官に対する供述調書(昭和三三年六月一八日付、抄本)によれば、選挙期間中、前後三回に亘り、被告人小林が重要用務を帯びて、松江市の選挙事務所に出かけたことが明らかであり、右富田に対する取調の後、被告人小林においても、検察官の取調の際、右事実を肯定するに至つたことが窺われる。(同被告人の検察官に対する昭和三三年六月二九日付供述調書)

(3)  被告人森山の司法警察員に対する供述調書(昭和三三年六月二一日付)及び検察官に対する供述調書(昭和三三年七月三日付第二通目の分)には、上成橋の所で小林と交替した際の事情に関する点につき、前記の如き、公判廷における供述と同趣旨の供述記載部分があるけれども、一方、被告人小林の司法警察員に対する供述調書(昭和三三年六月一五日付第二通目の分)には、同被告人の供述として、「大曲の上成橋の所に帰つたのは、大体午後四時から四時半頃であつたが、自分は、入院患者の回診がしてなかつたので、その際、これを診察するため、斐川村の方に行くことを取止め、上成橋の所で下車して自宅に帰つた」旨の記載がある外、同被告人の検察官に対する供述調書(昭和三三年六月二七日付及び同月二九日付)に、同被告人の「午後四時半か五時頃、事務所から歩いて二、三分位の上成橋の所で下車しその侭自宅に帰つたが、入院患者の回診は、五月一日は、街頭演説から帰つた後にしたと思う」旨の供述記載部分があるのみであつて、急患を理由に上成橋の所で交替したということに関する事情につき、何等供述記載部分が見当らないことは、前記の如く、小林が昭和三三年六月一四日、森山が約一週間後の同月二〇日それぞれ逮捕された経過と考え合せるとき、まことに奇怪な現象であるといわなければならない。

(4)  昭和三三年五月一日の選挙公示直前の四月二九日又は三〇日頃、松江市の選挙事務所責任者たる富田昇が出雲市の選挙事務所に赴き、被告人小林等三名及び福代県議会議員に面会し、各地の情報を聞いた上、その場で、法定選挙費用の一部として現金一〇万円を松原から受取つたことは、富田昇の検察官に対する供述調書(昭和三三年六月一八日付抄本)及び別件富田等被告事件の第八回公判調書中、被告人としての富田の供述記載部分に徴して明らかである。然るに、第一六回及び第一八回公判において、被告人松原は、「その頃、出雲市の選挙事務所の離れの部屋で、富田に対し、一〇万円を渡したことは、間違ないが、その場に小林や森山はおらず、同人等と一諸に富田に会つた記憶はない」旨供述し、被告人小林、森山両名も亦、第一八回公判において、「自分等が一緒に富田に会つた記憶はない」旨供述しているのである。

如上の経過に鑑み、被告人等の供述態度は、捜査官の取調の際は勿論、公判廷においても、これを以て、自ら積極的に真実を吐露せんとしたものとは到底受取り難い。

三、吉川芳富、阿川文雄及び片山武夫の検察官に対する各供述の任意性の有無

弁護人は、吉川等三名の検察官に対する各供述調書につき、同人等の「五月一日、被告人等三名から、現金六万円を受取つた」という趣旨の自白は、長期間に亘る拘禁中、強制或いは誘導によつてなされた供述であるから任意性がない旨主張し、証人吉川芳富の第八乃至第一一回公判における証言、同阿川文雄の第一三回公判における証言及び同片山武夫の第一四回公判における証言には、恰も弁護人の右主張に符合するかの如き供述部分があるけれども、該供述内容自体明らかに幾多の矛盾を包含するのみならず、更新前の第二回公判における同人等の各証言並びに別件吉川等被告事件の第一回及び第一四回公判調書中、同人等の被告人としての各供述記載部分と対照するとき、右各証言は、到底これを信用することができない。ところで、片山が昭和三三年五月二七日、阿川が同年六月五日、吉川が同月二一日それぞれ逮捕されたことは、別件吉川等被告事件の記録上明らかであるが、何等同人等が、「五月一日、被告人等三名から、現金六万円を受取つた」という趣旨の自白をなすに至つたかの点を、同人等の検察官に対する各供述調書について精査するに、先ず、片山は、同年六月七日「森山から七万円受取つた」旨供述し、更に同日「森山から受取つた後で、小林が入つて来た」旨供述し、その後、同月一四日「小林等三名から七万円受取つた」旨供述するに至り、なお、同年七月四日「金額七万円は六万円の間違であつた」旨訂正したこと、次に阿川は、同年六月一二日「自分は、森山、松原両名から、片山の手を経て、自分の分前一万五、〇〇〇円を受取つた」旨供述し、次で、翌一三日「小林等三名から約六万円位受取つた」旨供述したこと、又吉川は、同年六月二六日「松原から六万円又は七万円貰つた」旨供述し、次で、同月三〇日「小林等三名から六万円受取つた」旨供述するに至つたものであることが窺われる。然らば、吉川等の検察官に対する各供述調書は、いずれも多数あるとはいうものゝ同人等の「五月一日、被告人等三名から、現金六万円を受取つた」という趣旨の自白それ自体は、決して、弁護人の主張するが如く、長期間に亘る拘禁の後なされた供述であるとは称し難い。右自白以後の取調が主として同一事実の詳細な内容、例えば、実際に授受された金額、これが使途等に関する点、これに関連する新なる事実、例えば青年団員に現金を渡し、或いは饗応した情況、逮捕されるに至るまでの行動、経過等に関する点、従前の供述の記憶違の是正等本件及びこれに関連する事実全部につき、これが真相究明のためになされたものであることは、右各供述調書の内容に徴して明らかであつて、これについて、弁護人の主張するが如き、違法な強制或いは誘導が行われたということを窺わしめるに足る資料がないのみか、却つて、片山提出に係る上申書三通及び吉川提出に係る上申書五通(第五回公判で取調べた疎明資料)等により、吉川等三名の検察官に対する各供述の任意性は、これを首肯するに十分である。

四、吉川芳富、阿川文雄及び片山武夫が本件第一回目の金員を受取つた日時

吉川等三名が本件第一回目の金員を受取つた日時につき、弁護人は、前記の如く、主として、公判廷における被告人松原の供述を基礎とし、右日時を以て、「五月一日以外の日である」旨主張するところ、更新前の第二回公判における証人柴田隆、同吉川芳富、同阿川文雄及び片山武夫の各証言、第一三回公判における証人阿川文雄、第一四回公判における片山武夫の証言、別件吉川等被告事件の第一回公判調書中、被告人としての吉川等三名の各供述記載部分、別件吉川等被告事件の第一四回公判調書中、被告人としての阿川、片山両名の各供述記載部分並びに柴田隆及び吉川等三名の検察官に対する各供述調書を綜合すれば、吉川等三名が、五月一日には、出雲市の選挙事務所で資金を貰い受けようということにつき、その前々日たる四月二九日夜、松江市和多見町料亭「田中屋」において、柴田及び吉川等三名が会合した際、これが相談、打合せを遂げたこと、吉川、阿川両名は、その晩「田中屋」に宿泊し、翌三〇日、阿川は、吉川が操縦するオートバイに乗せて貰い、両名相携えて出雲市の選挙事務所に赴いたこと、その晩は、両名共、同事務所に一泊し、翌五月一日には、前記打合せに基き、片山が松江市から出雲市の選挙事務所に来たので、こゝにおいて、吉川等三名が揃つて、当日本件第一回目の金員を受取つたこと、而して、直ちに三名でこれを分配し、その後で、阿川は再び吉川のオートバイに乗せて貰つて、両名共帰途に就き、三刀屋町のバス停留所で阿川は吉川と別れてバスで帰宅し、又、吉川は、オートバイで帰宅したことが認められ、如上各事実及び経過は全く動かし難いところである。然るに、弁護人においては、「五月一日には、吉川は、木次町で妹の嫁入道具である箪笥等を購入し、当日、出雲市にいた筈がない」ということを前提とし、「吉川が恰もアリバイ工作をなしたかの如く、架空の事実が捏造されて仕舞つた」旨主張するところであるから、この点に関する証拠関係につき、検討を試みよう。

(1)  吉川の検察官に対する供述調書には、吉川の供述として、「五月三日は、妹幸枝の結婚式があることに決まつていたが、その前日、即ち、出雲市の選挙事務所で本件第一回目の金員を受取り、三名でこれを分配した日の翌日たる五月二日には、木次駅前の入沢家具店で、右分配金を流用して妹のために嫁入道具である箪笥等を買つてやり、これを丸共運送店のオート三輪車で自宅まで運搬して貰つたが、右購入の際、家具店の主人に対し、帳簿上、今日買つたことにしないで、昨日買つたことにして置いて貰い度い旨依頼し、又、運送店の方は、その後、阿川が逮捕された日である六月五日に、丸共運送店の妹尾運転手に対し、五月二日の箪笥等は、前日のメーデー当日に運搬したことにして置いて貰い度い旨依頼し、いずれもその承諾を得た」旨の記載があり、当裁判所が、昭和三三年八月二九日、木次簡易裁判所において取調べた証人入沢昌一郎、同妹尾富吉及び同森合富正の各証言並びに検察官に対する入沢昌一郎の昭和三三年七月六日付、妹尾富吉の同日付、森合富正の同月七日付及び吉川幸枝の同月八日付各供述調書中、同人等の各供述記載は、いずれも右事実に符合する。而かも、更新前の第二回公判において、吉川は証人として、如上の事実を肯定する趣旨の証言をなした上、その動機につき、「選挙運動の期間中であり、自分は青年団長をしていたので、五月一日に貰つた金で買つたと疑われてはいけないと思つたからである」旨供述しているのである。

(2)  然るに、第八回から第一一回までの公判において、証人として出廷した吉川は、前回の証言を飜した上、前記の如き、弁護人の主張に符合する趣旨の供述をし始め、又、これと相前後して、別件吉川等被告事件の第一一回公判において、証人入沢昌一郎、同妹尾富吉及び同森合富正の各証言として、いずれも「吉川が箪笥等を購入し、これを自宅まで運搬したのは、五月一日のメーデー当日のことであつた」ということを前提とし、「昭和三三年八月二九日、木次簡易裁判所において取調を受けた際には偽証をなしたものである」旨供述しているのである。(別件吉川等被告事件の第一一回公判調書)併しながら、前顕各証拠に照し、いずれも到底これを信用することはできない。

(3)  吉川の検察官に対する供述調書には、吉川の供述として、「五月二日、即ち、箪笥等を購入した日の夜、翌三日行われるべき街頭演説のことで打合せをなすべく、阿川と共に、当時、仁多郡連合青年団事務局長であつた旧八川村居住の安部要範方を訪れた」旨の記載があるところ、第一七回公判において、証人安部要範は、「竹下候補の街頭演説があつたことは覚えているが、それが何日であつたか記憶していない」旨の供述をなした上、「吉川や阿川が来たのは、街頭演説を基準にして何日位前のことか」との問に対し、「私は五月一日だと記憶しています」と答えたのであるが、同人が街頭演説の行われた日時につき、記憶がないのに拘らず、吉川等来訪の日が五月一日であつたということのみを何故に正確に記憶しているのか、この点同人が吉川と特殊な間柄であることの考慮を別にしても、その供述自体極めて不自然であつて、右証言の信憑性につき、深く疑わざるを得ない。

(4)  別件吉川等被告事件の第一六回公判調書中、証人内田邦夫及び被告人としての吉川の各供述記載部分を綜合すれば、四月二四日、吉川が仁多町森林組合に対し、自己所有の山林立木五万円相当のものを売却し、翌二五日、吉川の弟の妻が右代金のうち三万円を受取つたことが認められる。併しながら、八代駅前にある吉川名義の鉄工所の経営状態、弟夫妻を鉄工所に居住せしめてこれに事業を委せている事情、運転資金の融資を受けたために生じた負債関係、自宅における日常の生計状態等諸般の事情を考えるとき、吉川が右山林立木売却代金三万円を以て、箪笥等購入資金に充てる余裕があつたということは、容易にこれを是認し難く、右山林立木売却の事実があつたとて、固より、これを以て、前記アリバイ工作の事実を否定する資料とはなし難い。

(5)  弁護人は、「五月一日には、吉川は木次町で箪笥等を購入し、当日出雲市にいた筈がないことは、同人が逮捕された際、三成警察署において、直ちに、与倉警部補に供述している」旨主張するところ、別件吉川等被告事件について、吉川の司法警察員警部補与倉勲に対する供述調書三通(昭和三三年六月二二日付の分二通及び同月二三日付)が取調べられ、これ等の調書に、吉川の供述として、本件の前後二回に亘る金員の授受を否定することを前提とし「五月一日には、確かに妹幸枝の婚礼準備の嫁入調度品を木次町で買求めており、メーデー当日には、出雲市方面に他出していない。四月末頃、五万円相当の山林立木を売却して、前渡金二万円を受取り、その一部を箪笥等の代金に充てゝおる。四月三〇日頃、自分と阿川の二人が出雲市の森山方に赴き、片山から選挙運動資金として、現金二万円を貰つたということと五月一四日大社町から阿川を出雲市の選挙事務所まで行かせ、松原から現金四万円を受取り、二人で分配したということについては、片山、阿川両名に面接して話をつけ度いと思う」旨の記載があることは、当裁判所において顕著なところであるが、吉川の検察官に対する供述調書によつて窺われる各種の事実、例えば、五月二七、八日頃、松江市雑賀町の竹下候補留守宅で、吉川が被告人松原に会つた際、松原が「若い者が取調に対し、しやべつて困る。何もしやべらぬのに限る」とか「できるだけの手は打つてあるが、何分若い連中が何でもしやべるので困る。逮捕されても、二三日間なんにもいわなければええんじや」と申向けたこと、吉川が六月五日、当日阿川が逮捕されたことを知り、翌六日自宅を出て、同月八日東京に着き、上京中の同月一二日頃、国会議事堂裏の第一議員会館前で、偶被告人森山に出会つた際、森山が吉川に対し、「竹下派の違反がはばしい(激しいの意)がお互にしつかり頑張ろうぜ」と激励したこと等及び吉川が逮捕されるに至るまでに、相次で関係者が逮捕されて仕舞つたその当時の緊張、切迫した情勢に照して考察するとき、吉川が逮捕された直後、与倉警部補に対してなした供述は、二、三週間に亘り、住居地を離れている間に、考え続けて準備した挙句の弁解であることが窺われ、直ちにこれを以て、真相を告白せるものとは解し難い。

五、吉川芳富、阿川文雄及び片山武夫に対し、本件第一回目の金員を渡した者は、被告人松原一人であつたか或いは、被告人等三名であつたかの点

吉川等三名に対し、本件第一回目の金員を渡した者につき、弁護人は、前記の如く、被告人等の公判廷における各供述を基礎とし、「第一回目の分は、被告人等三名が渡したのではなく、これも亦、第二回目の場合と同様、被告人松原一人が渡したものである」旨主張するところ、弁護人の右主張の基礎たる被告人等の公判廷における各供述が、当然にはその侭これを信用することができないことは、既に説明した通りである。殊に、前記の如く、被告人松原が更新前の第一回公判において、冒頭陳述の際、公訴事実を全面的に否認せんとする態度を以て臨みながら、その後第二回公判以後において、金員授受の点のみを認め、その趣旨を否認するに至つたことは、本件の真相把握のため、決して、これを等閑に付し得ない。ところで、被告人小林、森山両名の五月一日当日の行動について、前記の如き、両名の公判廷における各供述につき、更新前の第六回公判における証人石橋英一郎及び同珍部千恵子、更新前の第七回公判における証人米井徳太郎及び同川上定男並びに当裁判所が昭和三三年一一月一六、七日出雲簡易裁判所において取調べた証人飛石泰一郎、同竹原精一、同川田房代、同馬庭克吉、同福代昭、同浅尾亀子、同森山友信、同今岡国久、同若槻光蔵、同新田芳右衛門、同梶谷吉郎、同大国光子、同田中健市及び同山田貞重の各証言、証第一号の遊説日程表並びに出雲警察署及び出雲市議会事務局の各日誌によれば、一応形式的には、前記の如き被告人小林、森山両名の公判廷における各供述に符合するかの如くみられるようであるが、各証言の内容を仔細に検討してみるに重要な事柄につき疑問をさしはさむべき点なしとしない。例えば、

(1)  被告人小林、森山両名の公判廷における各供述によれば、五月一日午後四時半頃、上成橋の所で森山が小林と交替したのは、小林医院に浅尾亀子という急患が来院したためであるとのことであるから、証人浅尾亀子の証言は、本件において、極めて重要な意義を有するものといわなければならない。然るに、同証人の証言によれば、同人は、五月一日当日の事柄のみは、極めてこれをよく記憶している格好であるに反し、その前日及び翌日の事柄については、全く記憶がないことになつている。証第二号の診療受付簿のうち、健康保険の分及び証第三号のカルテによれば、五月一日のみならず、その前日及び翌日にも来院していることが認められるに拘らず、前日及び翌日には行かなかつた旨供述し、「診療受付簿によれば四月三〇日にも行つたことになつているのだがどうか」との問に対し「日はよく覚えません。間で飛び飛びに行きますので」と答え、「五月二日にも行つたことになつているが」との問に対し、「私は、日ははつきり覚えません」と答え、更に、「すると発作が起つて行つたのは、五月一日ではなく他の日ではないか」との問に対し、「勘違いしていたかも判りません。お恥しいことですが」と答えているのである。

(2)  第一〇回公判における、被告人小林の供述によれば、「五月一日には、浅尾亀子の血圧の測定、検尿をなし、注射した上、内服薬を与えたが、眼球の出血があり、脳溢血の虞があつた訳である」とのことであるが、証人川田房代は、「浅尾は心臓の弱い人でこれまでにも度々来ていた患者であるが、当日も動悸が打つて、辛抱していたが、なかなか止まんので来たというので、一応今までのように自分が注射を打つたりして応急処置をして休んで貰つていた。先生が帰つて来たとき、浅尾も大分楽になつていたので、入院患者の方を先にみて貰つた。病室の回診の後で浅尾を診察室でみたが、そのときは、浅尾は、気分がよくなつて笑顔をみせており、診察が済んだら直ぐ帰つた」旨供述している。被告人小林の妻も医師であつて、被告人不在のときは、妻による代診もでき、応急処置の指示も亦可能の状態であるが、それは、暫く措くとしても、右川田証人の証言が真実なりとすれば、これと前記浅尾亀子の証言によつて窺い得る、被告人が帰宅してから浅尾を診察するまでの情況等から考え、浅尾を急患として取扱い、街頭演説に出かけて不在中である被告人に帰つて貰うべき手配したという点につき、その不自然であることを否定することはできない。

(3)  更新前の第六回公判における、被告人小林の供述によれば、「証第二号の診療受付簿には、初診者であると否を問わず、窓口に来た患者の名前を記入することになつており、忙しいときは、別の紙に書き留め、夜間移記することもあるが、大体受付けた順序になつている」とのことであるが、右診療受付簿のうち、健康保険の分の五月一日の欄をみるに、浅尾亀子の氏名は、四番目に記載してある。而して、その筆跡、インキの色を他の部分と対照してみるに、到底、浅尾亀子の氏名を他の患者のそれと同時に記入したものとは認め難く、従つて、窓口で受付けた際これを記入せるものと考えざるを得ない。然らば、当日浅尾亀子の来院したことが真実であるとしても、それは、午後のことでなかつたのではないかとの疑問の生ずることは、蓋し当然であるといわなければならない。

(4)  証人山田貞重の証言中「自分が外に水を打つていたら竹下候補と書いたジープが通り、上成橋付近で止つたので、演説があるのかなと思つていたら、間もなく小林が高瀬川の向う側(南側)の道を通つて西の方に帰つて行くのをみた」旨の供述部分がある。同人が看板広告業者であつて、たとえ、殊更、埃を嫌う営業であるとはいつても、当日、打水を必要とするような天候でなかつたことは、松江気象台長の昭和三四年一月一二日付「気象状況の照会について」と題する回答書によつて明らかであり、右証言は、これ亦不自然であるといわざるを得ない。

(5)  又、証人若槻光蔵及び同新田芳右衛門の各証言によれば、両名は、当日竹下候補の選挙事務所に陣中見舞に赴き、その帰途、上成橋の所で被告人森山が立つているのをみたとのことであるが、その際の情況に関する両名の各証言の一致しない点があることを考えるとき、到底各証言が不自然であることを否定し難い。

なお、証人川田房代及び同大国光子は、被告人小林の使用人であり、又、証人馬庭克吉及び同福代昭は、竹下候補の選挙運動員であつて、その他、いずれも竹下候補或いは被告人等と特殊な間柄に在り、それ等の証言は、直ちにこれを信用することができない状況であるものといわなければならない。弁護人は、検察官提出に係る山本善子、森山澄子両名の検察官に対する各供述調書につき「両名が取調を受けた際、同人等が約二箇月以前たる五月一日当日の事柄につき、正確な記憶を有していたということは、到底あり得る筈はなく、その供述は、著しい勘違いであると考える外はない」旨主張しているのであるが、弁護人請求に係る如上各証人の大部分が取調を受けた際には、問題の五月一日から、既に半年以上も経過しており、本来、記憶がかなり薄くなつているのが普通であるに拘らずいずれの証人も、尠くとも五月一日の事柄に関する限り、極めて詳細且整然と証言をなしおり、寧ろ誇張せる傾向が認められ、何人かによつて、必要以上に訓練を施された形跡が顕著であるというべく、その証拠としての価値は極めて乏しいものといわなければならない。当日、被告人小林、森山両名が街頭演説に加わり、森山が出雲市内、小林が出雲市及び大社町において、いずれも街頭演説に加わつたこと、午後四時から四時半までの頃、ジープが出雲市に帰り、被告人小林が上成橋の袂で降車したこと及びその後、夕刻頃から被告人森山が小林と交替して大津町の方面に向つたことは、これを認めることができるとしても、右各証言を以て、当日午後四時半前後頃から五時前後頃までの間、同被告人等両名が選挙事務所にいたということを否定する資料とはなし難い。一方、第一二回公判において、証人山本善子は「自分は、選挙事務所が開かれた最初の日たる五月一日当日、森山方から自分の家まで、炊事用の卵を取りに帰つたが、選挙期間中、他の日に卵を取りに帰つたことはないように思う。当日は、兄の妻が赤ちやんを産んだ五月一日であつた、検事の取調を受けた際、調書は読んで聞かされたが右取調の時嘘はいうていない」旨供述し、証人森山澄子は、「本年六月二六日、検察庁で取調を受けた際、調書は読んで聞かされ、その時嘘はいうていない」旨供述しているが、山本善子の検察官に対する供述調書(昭和三三年六月二四日付の分二通)及び森山澄子の検察官に対する供述調書(昭和三三年六月二六日付)に徴し、被告人小林、森山両名も、当日夕刻頃、選挙事務所にいたことを認めることができるのである。進んで、吉川等三名の検察官に対する各供述調書につき、同人等の検察官に対する各供述の信憑性の有無について検討するに、右各供述調書には、同人等自身に非ざれば到底知り得ない事柄に関する数多の供述記載部分がある。吉川等三名に対し、本件第一回目の金員を渡した者は、何人であるかの点につき、当初、同人等の各供述の間に喰違があつたことは、前記の通りであるが、これのみを捉えて、直ちに同人等の供述を以てすべて虚偽の自白であると速断するのは相当でない。本件の如き事案の特殊性を念頭に置いて、右供述の喰違のある部分を諸般の証拠に照して仔細に検討するとき、該供述部分は、これを以て、虚偽の自白であるというよりも、寧ろ真実の一部を吐露せるものであると解するのが合理的であり、且、真相に合致するものということができる。結局、吉川等三名の検察官に対する各供述については、いずれも裏付たるべき証拠が具備しており、信憑性を有するものであるということができ、同人等の検察官に対する各供述調書及び諸般の証拠に徴し、吉川等三名に対し、本件第一回目の金員を渡した者は、決して、弁護人の主張するが如く、被告人松原一人のみでなく、被告人等三名であつたものと断ぜざるを得ない。なお、被告人森山の検察官に対する供述調書(昭和三三年七月二日付第二通目の分)には、同被告人の供述として、「自分は既に自分自身の市議会議員選挙三回の外、先輩の市長選挙や、参議院議員選挙、衆議院議員選挙等で数回運動に従事した経験がある。いくら口では公明選挙といつてもどの陣営でも法定の選挙費用丈で選挙戦を勝ち抜く訳には行かない実情なので色々と裏の金も使われており、自分も過去の選挙では、いわゆる買収資金の授受に関係したこともあつたが、こんなことは、人の沢山おる所ですべきことではないので、自分の場合は何時も一対一の場合に限られていた。これが選挙の経験者の常識であり、本件で問題になつているような三人もの前で金を授受するということは、それ自体非常識で選挙の通である自分がそんな三人もの前で買収資金の授受をする筈がない」旨の記載があつて、本件の如く、被告人等三名が吉川等三名に現金六万円を渡したということは、一応被告人のいわゆる経験者の常識に反するかの如くみられないこともないが、竹下候補のための選挙運動が青年団の組織を利用する選挙運動に重点が置かれたこと、被告人等及び吉川等の双方いずれも青年団活動に特殊な立場に在つたこと等の実情を考えれば、被告人等が吉川等三名に本件金員を渡したということにつき、敢てこれを怪しむに足りない。

六、「島根県青年運動史」に関する主張について

弁護人は、吉川等三名に対し、本件第一回目の金員を渡した者は、被告人等三名ではなく被告人松原一人であるということを前提として、いずれも被告人松原が青年運動史編纂のための費用に充てるべき立替金或いは寄付金として渡したものであると主張し、公判廷における被告人松原の供述並びに証人吉川芳富、同阿川文雄及び同片山武夫の各証言も一応これに符合する。かねてから、青年団関係者の間で、島根県の青年運動の過去一〇年の歩みを記録し、以て、今後の反省と参考に供せんがため「島根県青年運動史」なるものの発刊が計画され、既に、その編纂事業に着手していたことは、証第四号の青年団関係参考綴中「島根県青年運動史発刊要項」と題する印刷物並びに当公判廷における証人下垣秀典、同原久夫及び同多代田寿美の各証言によつて明らかである。併しながら、本件授受に係る金員が青年団員の会合の際の飲食費に費消されたり、又、青年団に全く無関係の片山が右金員の授受に関与したこと自体、本件の金員が決して弁護人主張の如き趣旨を以て授受されたものでないことを窺わしめるに十分である。要するに、本件の金員が、判示の如く、「島根県青年運動史」編纂事業に藉口し、青年団の組織を利用して、竹下候補のための選挙運動を展開すべき目的のために授受されたものであることは、諸般の証拠により、極めて明瞭であるといわなければならない。

よつて、弁護人の主張は、いずれも採用し難い。

(法令の適用)

被告人小林文慶の判示第一の所為は、公職選挙法第二二一条第三項、第一項第一号、刑法第六〇条に、被告人森山金一及び同松原嘉弘の判示第一の各所為は、いずれも公職選挙法第二二一条第一項第一号、刑法第六〇条に、被告人松原嘉弘の判示第二の所為は、公職選挙法第二二一条第一項第一号に各該当するところ、いずれも所定刑中懲役刑を選択すべく、被告人松原嘉弘の判示第一の罪と判示第二の罪とは刑法第四五条前段の併合罪であるから、同法第四七条、第一〇条により、犯情の重い判示第一の罪の刑に併合罪の加重をなすべく、右各刑期範囲内において、被告人等をいずれも懲役八月に処する。なお、訴訟費用については、刑事訴訟法第一八一条第一項本文、第一八二条を適用し、被告人等に対し、全部これが連帯負担を命ずる。

よつて、主文の通り判決する。

(裁判官 組原政男 西村哲夫 武波保男)

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